私がオーストラリアに移住したのは1992年。実はそれまで私はずっとサラリーマンで、自分が経営者になるということは頭になかった。私はオーストラリアに移住する前は、AutoCADという設計支援ソフトのSEプログラマーをしていた。AutoCAD社は米国に本社がある大きなITベンチャー企業で、日本、オーストラリアなど世界中に支社があった。
移住ビザが降りるという知らせを受けて、就職先、居住先を探しにオーストラリアの各地を回った。実はそれまでオーストラリアに来たことがなかった。メルボルンにAutoCAD社の支社があると聞いていた。メルボルンに着いてから、タクシードライバーに住所を告げた。タクシーは、どんどん都心からはずれて郊外を走り、周りは住宅ばかりになった。「ここだ」とドライバーに言われてメモの住所の番地に立った。だが、普通の住宅で会社の看板さえなかった。心配になったが、引返す訳にはいかないのでドアのベルを押した。出て来たのは若い男性、名前はジョージ。実は彼が支社長だった。
ジョージはとても丁寧に説明してくれた。「オーストラリアは、日本のような機械産業や電気産業がない。AutoCADを必要としているのは、建築業くらいだ。建築業にしても日本のような大企業がなく、ほとんどが十人以下の会社か個人経営なんだよ」 私は就職先を紹介してもらおうと思っていたが、どうもそんな雰囲気ではなくなった。「この国では、自営業で生計をたてている人が多いし、それでみんなハッピーだよ」
その後、居住先をシドニーに決めて就職先を探したが、どこに行っても「独立したら?」と言われた。私は正直、自分が経営者に向いていると思っていなかった。会社の作り方も知らなかったし、営業も得意ではなかった。酒は飲めず、ゴルフもしたことがなく、人付き合いもよくなかった。それにも増して経営者になりたいという意欲そのものがなかった。しかし、どうもそれしか選択がないようで、仕方なく見様見真似で現在の会社を作った。
私は日本にいたときに、中小企業、自営業で働く人たちと一緒に仕事をしたことがあった。ほとんどが大会社の下請け、孫請けで、大会社から厳しい条件を出され無理を押し付けられ、安い賃金で働かされるというのを見ていた。一番いやだったのが、大企業の担当者から上から目線で命令され、下請けは卑屈な態度に終始して、奴隷と主人のような関係、言葉遣いになることだ。会社がスタートしてからでも「ここでもきっとそんな目に遭うんじゃないかなあ。いやだなあ」と不安であった。
私にとって幸いであったのは、ITという業種がスタートしたところで、業界の掟や偏見がほとんどなかったことだ。また、シドニーにある日本企業は日本では大手の企業であるが、シドニーでは十人以下という企業が多かった。日本では簡単には敷居を跨がせてもらえない銀行、保険、運輸、商社という名だたる企業から直接仕事の依頼が来た。
オーストラリアという土地柄もあるのだろうが、付き合い方も平等で、上から目線でものを言う人たちは日本人の中にもいなかった。心配した割には順調な滑り出しになった。そしていつの間にか30年が過ぎていた。オーストラリアという国、お世話になった方々に支えられた30年であった。