1995年と言えば、何と言ってもWindows 95が発売された年である。今日では世界中でソフトの同日発売が普通であるが、この時は国によって発売日が異なっていた。95の発売は当初1995年春とアナウンスされたが、英語版が8月、日本語版が11月にやっと発売された。遅れた原因は「インターネット」のOSへの組み込みだ。Windows 95の前のバージョン、3.1でもインターネットにアクセスできたが、ソフトを選んで設定をするのにかなりのIT知識が必要で、一般人には難しかった。
マイクロソフトは95開発当初、インターネットをOSに組み込むことを考えていなかった。ところがインターネット熱が高まり、発売直前になって急に方針を変えた。この年、インターネットという言葉が大流行し、猫も杓子も訳も分からないままインターネットを語った。一般人が自宅用にPCを買い出したのもこのころからである。企業では、手書きでしていた業務を止めてPCを使って全ての仕事をするようになったため、多くの企業で混乱が起きていた。
1995年私はすでにシドニーに住んで、自分の会社を持っていた。シドニーの日本企業の多くはまだ手書きで仕事をしていたが、本部から早急に手書きを止めPCに切り替えるようにという通達が出ていた。その中で一番困っていたのが年配の会社トップの人たちだった。彼らの多くは機械に不慣れで、ビデオ録画もできなかった人たちだ。ところが本部の通達により、秘書を廃止、タイピストを廃止して、役員から従業員まで一人一台のPCを配布。自分でタイピングすることになったのだ。
会社のトップの人たちのほとんどは、それまでキーボードに触れたことがなく、秘書や専門のタイピストにタイプしてもらっていた。トップの役割と言えば、タイプされた紙を見て、インキが薄いとか、行空けをもっとしろとか偉そうに言うのが仕事であった。デジタル革命は、彼らにとっては正に晴天の霹靂だった。それまで偉そうにしていた手前、若い社員に頭を下げて習うのも癪に触る。私事であるが、そういう状況を睨んで、私はシニア向けのパソコン教室を企画。タイピングの仕方からスタートする超入門コースを作った。これが大当たりをして、私がシドニーにある多くの日本企業に関わる切っ掛けとなった。
当時日本人用パソコン教室なるものはシドニーになく、特に会社のVIP用個人教授クラスを作ると、日本企業の多くのトップの方々が習いに来てくれた。日本企業のトップというのは、普段警戒心が強く、地元の小さな企業経営者と交流することは少ない。しかし、教育となると立場が逆転し、教える者が先生で、大会社でどんなに偉い人でも教えられる者は生徒になる。そんな訳で、会社の偉い人たちから「先生、先生」と呼ばれるようになった。さらに授業の合間に世間話をすることがあり、「うちの会社には誰もITができる者がいないので、一度見に来てほしい」というリクエストが入るようになった。トップを教えた縁で、会社のITサポートの仕事も請け負うようになったというのは、本当に幸運であった。
話が私事に逸れてしまったので、元に戻す。当時ソフトの保証やサポートに関して日本人、日本企業はかなり不満があった。日本のテレビ、電化製品などに関して、日本メーカーは技術に絶対の自信を持っており、普通に使用して壊れることはなかった。万が一製品に問題があると、平身低頭に謝り、急いで駆け付け、場合によっては新しい物とすぐに交換してくれる。こうゆう癖が日本国民に染み付いていた。それでPCやWindowsなどのソフトウェアの保証、サポートに関しても同じ期待をしていた。
ところがである。Windowsは多くのバグ、エラーを含み製品として完成しておらず、「よくこんな中途半端なものを市場に出すわ」と多くの日本人は文句を言った。正確無比が自慢の日本人にとってこんな製品は許せなかった。しかも、どこに文句を言っていいか分からず、メーカー・サポートに電話をするとずっと話し中。それで気付いたのが、同じような不満を持った人たちがウェブのサイトを作って解決方法を教え合っているもの。そのうちソフトウェア特有のサポートというのが出てきた。修正ファイルを集めたものを定期的にCDに入れて配る、これらは後にダウンロードに代わった。つまり、メーカーの言い分としては、問題があったとしてもすぐに修正できない。何ヶ月かに一度修正ファイルをまとめて提供するから、それで我慢するように。さらに、電話で苦情は受け付けない。メーカーのウェブに問題点を載せるので、それを読むように。
前述したように、日本のメーカーは顧客に対してとても親切で、何か問題があれば先ずお客様の立場に立って、丁寧に謝りそれから事情を聴くというのが習慣だった。そのため、このようなITサポートの上から目線が気に入らないで文句をいう人たちが続出した。ただ、ITサポート側にも言い分はあった。電化製品とソフトウェアはそもそも違うもので、電化製品であるとそれを作ったメーカーがその製品がどのように使われるのかほとんど全て把握できる。ところが、PCとソフトウェアの組み合わせで、ユーザーができることは、ほぼ無限にある。それら造ったメーカーでもどのような使われ方をするのか、すべての通りを全く把握することはできない。さらにプリンタやネットワーク機器など、異なるメーカーとの接続。それらをインストール、設定する技術者も第三者。てなことで、簡単に言えば、最初から完璧な製品を造るのは無理。ユーザーに使ってもらいながら出てきた問題を解決していくというやり方になったのだ。しかし、日本人はなかなかこのようなサポートに慣れることができず、絶えず不満を漏らした。「日本が主導していたらもっとちゃんとしてたのに、アメリカがやるとこんなもんだ」
1995年のIT話は、Windowsとサポートの話しだけではないが。書き出すときりがないのでこの辺りで。