ジャパン/コンピュータ・ネット代表取締役 岩戸あつし

ChatGPTをはじめとする、AI(人工知能)が凄まじい勢いで伸びている。2、3年前までは「チューリングテスト」と呼ばれる「回答者が人間か機械かを判定するテスト」に合格する(つまり機械の回答を人間のものと誤ってしまう)のはまだ先の話だと言われていた。ところがすでに多くのAIはこのテストに合格している。実際ChatGPTで、チャットするときに相手が機械だということを忘れてしまうことがあるくらいここ数年で急激に進化した。

AIが研究だけの対象ではなく、一般に使用できるツールとして認められたことで、AI関連株価はとんでもなく跳ね上がり、資産何兆円というAI企業が生まれている。かつて頭のよい人たちが就く職業は医者、弁護士であったが、最近はAI技術者がスポーツ選手よりも高い給与をもらって、一攫千金大儲けの新たなヒーローになっている。

ではAIが人間の脳に近付いたかというと、そこはちょっと違う。現在のAIの仕組みは、「ビックデータ」と言う主にインターネットからかき集めた膨大なデータ、そのデータを何層かに分けて学習する「ディープラーニング(深層学習)」によって成り立っている。特に言葉の学習に関しては、ビッグデータを活用して、過去に使用された文章の文脈と照らし合わせることで、おかしな文章にならないように、文法的に正しい文章を作成する方法が取られている。要するに、現在のAIは、必ずしも人間の脳の仕組みを完全に真似しようとしているのではない。かつてはAIを人間に近付けるためには、人間の脳の仕組みを完全に機械で置き換えるしかないと思われていた。だが、「ビッグデータ」「ディープラーニング」の出現により、人間の脳の仕組みをシミュレーションしなくても、別の方法でも人間に近付くことができるということが証明された。

さて、AIはこれからどうなっていくのであろうか? 現在のAIは知識の量では完全に人間を超えてしまっている。これからも知識量の差は縮まるどころかどんどん開いていくだろう。理解、判断、感情など人間の持つあらゆる知的能力もそのうちAIに追い越されてしまう日が来るだろう。 かつてはAIには「創造力がなく、人間の命令がないとなにもできない」と言われたが、小説を書いたり、新しいプロジェクトの提案をするAIができているところをみると、それも時間の問題で人間を超えるであろう。ロボット技術と相まって、自立歩行し自由にものを考えるロボットが誕生するのも想像に難くない。では逆に人間にあって、徹底的にAIにないものは何なのだろうか?

400年前に、人間とは何かについて深く考えた人がいる。ルネ・デカルトである。デカルトは人間を徹底的に疑うことから出発した。手足など身体のパーツは失われても自分は自分であるということに変わりはない。臓器にしても人工臓器に置き換えることができる。このように取り除けるものを全て取り除いて出た結論が、疑っている自分の心だけは疑うことができない。「我思うゆえに我あり」という結論だった。この結論に納得がいかない読者もいると思うが、西洋の近代哲学はデカルトのこの一言によって始まったことは歴史が物語っている。

上の「我思う…」というのは、別の言い方をすると究極の自意識と言えると思う。つまり自分が誰かということを意識できること。私説ではあるが、自意識とは「わたし」を常に中心にして行動し、「わたし」を鏡を見るように第三者としてみることができる意識だと思っている。私の知る限りAIには自意識がない。では、どうしたら自意識をAIに組み込むことができるのか?

先に行く前に、「自意識」どころか「意識」という用語の定義が定まっていないという問題に直面する。科学的にも今までの科学は、観察を大きな柱としており、観察者自身を研究対象とすることがなかった。つまり客観性を重視した科学は、その観察者である主体の研究が疎かになっていたと言えるのではないだろうか。「自意識」が何かわかっていないのに、それをAIに組み込むことは土台無理な話である。しかしそれでも、我々は理屈抜きで、あきらかに自意識を持っているとみんな感じているのであり、その存在がAIとは違うという人間の最後の誇りを形成しているように思える。

余談になるが、西洋の近代哲学がデカルトの「自意識」から始まったのに対し、東洋では、特に仏教では「無我」の言葉で示されるように、究極の「我」、「わたし」など元々存在しないと説いている。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などヘブライイズムと呼ばれる西洋の宗教には、一人一人に固有の「魂」があり、それが天国に行ったり、地獄に行ったりする。それに対し仏教は、人間は体も心もパーツの集合であり、魂と呼ばれる心の核になるようなものはないと説いている。例えるなら、玉ねぎの皮を一つずつ剥いていき、最後に残る芯が玉ねぎの究極の姿だと思って剥いていくと、なんと最後になにも残らなかったということだ。

このように西洋、東洋で見解の異なる「我」「自意識」をAIに組み込むのは今のところ、方法論さえ確立されていない。ある研究者は、人間の脳の仕組みを完全にシミュレーションしたAIを作れば、自然と「我」や「自意識」が芽生えるのではと考えているようである。しかし、これはハード、ソフト的に同じものを作れば、アウトプットも同じになるのではないかという、博打的な考えからきているのであり、必ずそうなるという保証はどこにもない。しかも一千億と言われる人間の神経細胞とそれらのネットワークを完全にシミュレーションするには、今の科学技術をもってしてもすぐには実現できない。AIが人間に近づいてきたお陰で、我々はもっと「人間とは何か」を考える機会が増えていくであろう。

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